新サレルノ養生訓  第6回 1年の月(1月~3月)

サレルノ養生訓とは

イタリア料理が好きな方や、地中海式ダイエットに関心をもたれる方の中には、「サレルノ養生訓」という本があることをお聞きになった方もいることでしょう。サレルノは南イタリア、カンパーニャ州にある都市で、ナポリの南東50キロに位置する有名な保養地です。学問の地としての歴史は古く、八世紀にはヨーロッパ最古の医学校が創設され、広く病気療養、保養の人を集めて「ヒポクラテスの町」とも称されました。イギリスやフランスの王族も治療のためにこの地を訪れたと言われます。

そのサレルノ医学校の創設後、十一世紀末には医学校の校長を中心に小さな衛生学の読本が作られました。それは全編ラテン語の詩の形をとって書かれ、食を中心に入浴法や睡眠など、生活習慣に関する注意事項を予防医学の見地から、一般大衆にもわかりやすく解説したものでした。

これが「サレルノ養生訓」です。現代イタリアでも、ある年齢以上の世代では、幼少時より親からそのラテン語詩を聞かされて育った人がいるとのことです。サレルノ養生訓の原典は、十四世紀スペインの医師•哲学者であるビッラノーバが注解した360行のラテン語文とされ、その後増補されて最終的に3520行まで膨らみ、またサレルノ医学校の名声が上がると共に、英語、イタリア語、フランス語など各国語に翻訳されて、広くヨーロッパ中に流布しました。

真冬でも温暖なアンダルシア地方(スペイン)

真冬でも温暖なアンダルシア地方(スペイン)

新訳サレルノ養生訓について

2001年に私が訳解した日本語版サレルノ養生訓(柴田書店刊)に用いたテキストは、1607年に刊行された英語版(通称ハリントン版、エリザベス一世に仕えた思想家ハリントン卿による英訳)です。この日本語版サレルノ養生訓は幸い多くの方に親しんでいただきましたが、再版のめどが立たず今日に至りました。そして数年前のこと、イタリア食文化に造詣が深い文流会長西村暢夫氏から、自身所持されるイタリア語版養生訓にハリントン英語版(2001年の日本語版)にない記載があることをお聞きし、併せてイタリア語版からの新訳を考えてはどうかという提案をいただきました。

英語版とイタリア語版の養生訓の記述に差異が生じたのは、養生訓成立に関わる複雑な事情があります。中世以降イタリア語を含めて主要な言語に訳された養生訓は、時代とともにラテン語原典の内容が膨らむことで異本や外典が生じ、次に各国語に翻訳される過程で、その国の歴史や時代背景からも影響を受けて訳者による異訳が生じたことで、各版の間で記述に違いが認められたと考えられます。ところで、ヨーロッパ食文化の二大潮流は、ギリシア•ローマ型とケルト•ゲルマン型に大別(M.モンタナーリ)され、このたびイタリア語翻訳者の森田朋子氏の協力を得て、ギリシア•ローマの流れを引くイタリア語版からの新訳が可能となり、出版前に当サイト上で少しずつ公開する運びとなりました。ハリントンの英語版との比較も興味深いところです。

今回訳者の森田氏は、新訳養生訓のテキストに現代イタリア語訳であるシンノ版(Mursia社刊)に採用されたラテン語(デ•レンツィ校訂によるラテン語完全版、3520行からなる)を用いています。1876年サレルノに生まれたアンドレア•シンノ博士は、博物学•農学を修め、科学教師や図書館員の職に就きながら、郷土史とサレルノ医学校の研究を行い、1941年サレルノ養生訓の注釈付き翻訳書を著しました。森田氏と私の間で協議し、今回の新訳にあたりシンノ氏の注解を参照しながらあくまでラテン語原典を尊重し、さらに時代とともに膨らみ豊かになった記載を盛り込んで、現代日本の読者により興味を持てる内容とすることを取り決めました。

以上、前置きが長くなりましたが、この11月から当サイト上に、新訳サレルノ養生訓を連載いたしますので、楽しみにして下さい。

ウェルネスササキクリニック 佐々木 巌

訳者略歴

森田朋子(もりた・ともこ)

京都市出身・在住。京都光華女子大学在学中、古典ラテン語を故・松平千秋教授に学ぶ。シエナ外国人大学にて第二段階ディプロマ(イタリア語・イタリア文学専攻)取得後、イタリア語翻訳・通訳業に従事。主訳書『イタリア旅行協会公式ガイド①~⑤巻』(NTT出版・共訳)。
解説者略歴

佐々木 巌(ささき・いわお)

ウェルネスササキクリニック院長、医学博士。専攻は内科学、呼吸器病学、予防医学。長年外来診療や講演活動を通じて地中海式ダイエットの啓蒙と普及にあたる。近著に地中海式ダイエットの魅力と歴史、医学的効果をわかりやすく解説した「美味しくて健康的で太らないダイエットなら地中海式」(大学教育出版)がある。

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3-5 1年の月

  • 1 1月

1月には よく名の通った温かい食べ物を用い

また料理の後ではそれに合う、飲み慣れた飲み物を摂るのがよろしい。

実際この時期にハチミツ水を飲むのは体に悪いと、私は固く信じます。

あなたの体が疲れていないのならば、適当なリキュールを飲みなさい。

むやみと考え込むのはやめ、ありきたりの料理は避けなさい。

入浴はさしつかえありませんが、飲酒はほどほどに。

1月には温かい食べ物を摂るのが健康によいのです。

1月という月は温かい食事に手が出るものです。

また、しばしばおいしいリキュールで元気を回復するよう命じます。

切開された血管から血液を流出させてはいけません。

ですがぬるい湯に体を浸すのはよいことです。

  • 2 2月

このフェブルオ神の月には、飲み物や食べ物から、ひそかな熱が

多く生まれます。無事に暮らしたいなら

冷えに用心し、親指から血を抜きなさい。

フダンソウを食べ、反対にガチョウやディルは食べずにいなさい。

飲み物を摂取したら、親指のところで、減らしましょう。

2月には湿地の野菜、鳥、食品が体を衰弱させる熱をもたらすので

人々はこれらを恐れます。

しからば薬品は空にし、親指のところで血管を切り、

そして熱い湯で四肢を温めなさい。

  • 3 3月

3月は体液を拡散させますし、痛みを生じさせます。

血管は切開しないように。根を食べる時には慎重に。

もし口に合うのであれば、スープで煮た食べ物を摂りなさい。

風呂は汗をかくくらい熱くし、ぬるま湯も欠かさないように。

この時期にはローストした食べ物と入浴を心がけなさい。

3月は地中でも体内でも体液を増やします。

ですから清浄な食物に大いに気を配るのが賢明です。

柔らかい食べ物で、ピリッとした味つけのものが有益です。

薬はためになりません。血管切開は体を害します。

解説

季節の養生法に引き続き、これからは月毎の養生の細かな注意が述べられます。それは自身の体調と季節をよく調和させるための方法論とも言うべき内容です。

早速1月にはよく名の通った温かい食べ物を食べなさい、とあります。寒さも厳しいこの時期に温かい食事をとることは当然ですが、ありきたりの平凡な料理は避けて栄養価が高い食事をよく吟味してとることがポイントです。美味しいリキュールも元気を回復するために有益なのです。一方で深酒を控え、熱い湯ではなくぬるい湯につかることは、冬場に多い心臓発作や血圧に伴う事故を避ける上で大事なことでしょう。体液説が信奉されていた当時、ぬるま湯は冬の寒さで滞りがちな体液の流動性を高めるためによいとされていました。ところで飲み物の先祖とも言われるハチミツ水とは、ハチミツに水を加えて自然発酵させた飲み物のこと。アルコール濃度は低く、宗教儀式や医薬品として使われたものが、後にワイン、ビールと共に食卓でも飲まれるようになりました。

2月、養生訓が書かれた当時の南国イタリアでは、寒さがやわらぐにつれて飲食物の保存管理にも注意を払う必要が生じてきます。というのは、冷蔵庫も防腐剤もないために、飲食物だけでなく度数の低いアルコール飲料でさえ腐敗し始めたからです。以前お話したとおり湿地に棲む水鳥はマラリア(発熱)の原因と考えられていたので、狩猟で捕獲しても食卓では十分な注意が必要とされました。ここで初めて具体的な野草が登場します。フダンソウはアカザ科フダンソウ属で、ビートやテンサイ(甜菜)と同種の植物。サレルノ近辺に自生、耐寒性があり、若葉をゆでたものは便秘薬として珍重されました。ディルは地中海沿岸と西アジア原産で、荒地に自生するフェンネルに似たセリ科植物です。香りが強く体力を向上させると信じられ、古代ローマ人にとって歓喜と喜びの象徴だったと伝えられています。薬品とは冬に処方される強壮剤のことで、春も間近となった2月、こうした薬品は飲み収める必要がありました。

3月に生じる痛みとは、春に地中で起きているような自然の諸活動が自然の一部である人間の体にも現われるために生じる痛みのこと。体の中で滞っていた体液が勢いを増して体内を循環するために起きると考えられました。その体液の勢いを抑えるために、それまでのぬるま湯だけでなく、熱い風呂にもつかり発汗させる必要が出てきますが、まだ慌てて瀉血(血管切開)してはいけません。2月に勧められる食材は、ニンジン(セリ科ニンジン属)、ニンジンに似た根菜のパースニップ(セリ科アメリカボウフウ属)などの柔らかい主根です。こうした根菜は今日でもシチューやポトフ、ボルシチなどで用いられる通り、暖かいスープにして摂るのがよいと教えています。ニンジンは古代ギリシア•ローマ時代よりすでに強壮•浄血作用(肝臓を強め、尿の流れをよくして腎臓から不要物の排泄を促進させる作用)がある植物として栽培されていました。

※新サレルノ養生訓の無断転載及び引用を固く禁止します。