新サレルノ養生訓 第18回  1部9章7 味覚

サレルノ養生訓とは

イタリア料理が好きな方や、地中海式ダイエットに関心をもたれる方の中には、「サレルノ養生訓」という本があることをお聞きになった方もいることでしょう。サレルノは南イタリア、カンパーニャ州にある都市で、ナポリの南東50キロに位置する有名な保養地です。学問の地としての歴史は古く、八世紀にはヨーロッパ最古の医学校が創設され、広く病気療養、保養の人を集めて「ヒポクラテスの町」とも称されました。イギリスやフランスの王族も治療のためにこの地を訪れたと言われます。

そのサレルノ医学校の創設後、十一世紀末には医学校の校長を中心に小さな衛生学の読本が作られました。それは全編ラテン語の詩の形をとって書かれ、食を中心に入浴法や睡眠など、生活習慣に関する注意事項を予防医学の見地から、一般大衆にもわかりやすく解説したものでした。

これが「サレルノ養生訓」です。現代イタリアでも、ある年齢以上の世代では、幼少時より親からそのラテン語詩を聞かされて育った人がいるとのことです。サレルノ養生訓の原典は、十四世紀スペインの医師•哲学者であるビッラノーバが注解した360行のラテン語文とされ、その後増補されて最終的に3520行まで膨らみ、またサレルノ医学校の名声が上がると共に、英語、イタリア語、フランス語など各国語に翻訳されて、広くヨーロッパ中に流布しました。

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新訳サレルノ養生訓について

2001年に私が訳解した日本語版サレルノ養生訓(柴田書店刊)に用いたテキストは、1607年に刊行された英語版(通称ハリントン版、エリザベス一世に仕えた思想家ハリントン卿による英訳)です。この日本語版サレルノ養生訓は幸い多くの方に親しんでいただきましたが、再版のめどが立たず今日に至りました。そして数年前のこと、イタリア食文化に造詣が深い文流会長西村暢夫氏から、自身所持されるイタリア語版養生訓にハリントン英語版(2001年の日本語版)にない記載があることをお聞きし、併せてイタリア語版からの新訳を考えてはどうかという提案をいただきました。

英語版とイタリア語版の養生訓の記述に差異が生じたのは、養生訓成立に関わる複雑な事情があります。中世以降イタリア語を含めて主要な言語に訳された養生訓は、時代とともにラテン語原典の内容が膨らむことで異本や外典が生じ、次に各国語に翻訳される過程で、その国の歴史や時代背景からも影響を受けて訳者による異訳が生じたことで、各版の間で記述に違いが認められたと考えられます。ところで、ヨーロッパ食文化の二大潮流は、ギリシア•ローマ型とケルト•ゲルマン型に大別(M.モンタナーリ)され、このたびイタリア語翻訳者の森田朋子氏の協力を得て、ギリシア•ローマの流れを引くイタリア語版からの新訳が可能となり、出版前に当サイト上で少しずつ公開する運びとなりました。ハリントンの英語版との比較も興味深いところです。

今回訳者の森田氏は、新訳養生訓のテキストに現代イタリア語訳であるシンノ版(Mursia社刊)に採用されたラテン語(デ•レンツィ校訂によるラテン語完全版、3520行からなる)を用いています。1876年サレルノに生まれたアンドレア•シンノ博士は、博物学•農学を修め、科学教師や図書館員の職に就きながら、郷土史とサレルノ医学校の研究を行い、1941年サレルノ養生訓の注釈付き翻訳書を著しました。森田氏と私の間で協議し、今回の新訳にあたりシンノ氏の注解を参照しながらあくまでラテン語原典を尊重し、さらに時代とともに膨らみ豊かになった記載を盛り込んで、現代日本の読者により興味を持てる内容とすることを取り決めました。

以上、前置きが長くなりましたが、この11月から当サイト上に、新訳サレルノ養生訓を連載いたしますので、楽しみにして下さい。

ウェルネスササキクリニック 佐々木 巌

訳者略歴

森田朋子(もりた・ともこ)

京都市出身・在住。京都光華女子大学在学中、古典ラテン語を故・松平千秋教授に学ぶ。シエナ外国人大学にて第二段階ディプロマ(イタリア語・イタリア文学専攻)取得後、イタリア語翻訳・通訳業に従事。主訳書『イタリア旅行協会公式ガイド①~⑤巻』(NTT出版・共訳)。
解説者略歴

佐々木 巌(ささき・いわお)

ウェルネスササキクリニック院長、医学博士。専攻は内科学、呼吸器病学、予防医学。長年外来診療や講演活動を通じて地中海式ダイエットの啓蒙と普及にあたる。近著に地中海式ダイエットの魅力と歴史、医学的効果をわかりやすく解説した「美味しくて健康的で太らないダイエットなら地中海式」(大学教育出版)がある。

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7.味覚

  • 7-1 味覚の区分

味覚は十種類、もしくは三三が九種類であると、作家たちは言っています。

二二の四種類が冷たく、五種類が熱いと、証言しています。

脂っこい味、酸味、鋭い味はより繊細な味で、

収斂性の味、淡白な味、塩味は穏やかな味です。

渋味、甘味はそれよりも強烈ですし、苦味も同様です。

渋味、甘味、苦味は濃厚、酸味は軽妙、鋭い味は中程度、

渋味のものは口当たりが強く、これには酸味と収斂性のものは及びません。

味覚の話は徹底的には追及しないでおきます。

甘いものがとにかく一番という人がいるかと思えば

塩辛いものに限るという人もいるし

3人目はぞっとするような味を、4人目は鋭い味を好むと言った具合なのですから。

  • 2 味覚の特徴

塩味、脂っこい味、鋭い味、苦い味のものは穏やかに体を温め

酸味、渋味、淡白な味のないものは冷やします。

1.熱い味

熱にかけては次の3つが群を抜いています:塩味、苦味、強烈な味。

2.冷たい味

酸味のものは冷やし、かつ秘結させます。渋味のものもです。

3.穏やかな味

脂っこい味、淡白な味、甘い味はほどよい均衡を与えます。

4.甘味

水分を与え、和らげ、十分に滋養となり、浄化します。

5.酸味

一般には、神経にさわり、目の細かいものを干上がらせると言われています。

6.渋味

圧迫し、太らせ、しわを生じさせ、てきめんに胸をすっきりさせます。

7.塩味

目の粗いものを砕いて浸透しますが、すみやかに出て行きます。

8.脂っこい味

潤滑にし、詰まりを一掃し、満腹感を与え、胃の入口に漂います。

9.苦味

通じをつける効験あらたかで、胸を楽にし、ひきしめます。

10.鋭い味

目の粗いものを細かくし、燃え上がらせ、焼き、溶かします。

解説

二回続きで味覚の話が登場します。今回養生訓にはさまざまな味覚が出てきますが、養生訓の時代、医師たちにとって味覚は食物の消化との関わりで大事な事柄で、例えば濃い味や塩味は消化に悪く、酸味や苦味は消化を助けると考えられていました。また様々な味覚は熱いものと冷たいものに二分され、それらの味が人間を構成する四体液の均衡と健康にどのような作用を及ぼすかが考察されています。味覚の問題は、人はどんなものを好んで食べるかという食の動機とも深く関わり、医師が処方する食事療法の鍵をにぎっています。そこで養生訓では味覚を細かく分類して、その正体を探ろうしているのですが、7−1(味覚の区分)の後半部分には「味覚の話は徹底的に追求しないでおきます」と断っていることからも、この問題の難しさ、奥深さがわかります。

現代医学では基本の味覚は、「甘味」、「塩味」、「酸味」、「苦み」、「旨味」の五つに分類されます。この五つの味を引き起こす化学物質(刺激)は、舌や軟口蓋にある味蕾の味細胞によって受け取られ、その刺激が味覚神経によって中枢へ伝えられます。養生訓にもある辛味、渋味は基本味には含まれません。なぜなら、それらの刺激は口腔粘膜を支配する三叉神経を介して脳に伝わるからで、つまり生理学的には味覚神経を通じて脳に刺激が伝わる味が味覚というわけです。近年の研究によると、脂っこい味に対応する味蕾がありそうだということがわかり、そうなれば、基本的な味は六つに分類されるということになります。個々の味についての話は次回に譲り、今回は味覚と関わる食べ物の美味しさについて、話を絞りたいと思います。

私たちが美味しいと感じる味は、「甘味」、「脂っこい味」、「旨味」の三つであり、甘味は糖分、脂っこい味は脂肪、旨味(アミノ酸や核酸)はタンパク質と、この三つの味覚は三大栄養素と関わっています。それでは基本味覚に属する「苦み」や「酸味」はどうかと言えば、これは決して美味しい味には分類されません。酸味や苦みは動物が本能的に嫌う味で、本来、食べ物が腐ったり毒物が混入していることを知らせる危険信号だからです。嗅覚が発達した動物では、食物を口に入れる前に匂いをかぐことで危険を察知しますが、もし小さな子供がコーヒーやビールを口にしたら、すぐさま吐き出すことでしょう。大人になって苦味のあるコーヒーやビールを美味しく感じるようになるのは、動物と違って人間は食品に対する安全情報をもち、ビールが毒物ではないということを経験から知っているからで、大人の脳ではビールの苦みが発する危険信号は、ビールを楽しむための味覚信号にすり替わると説明されています。

ところで、脳がほんとうに美味しさを感じるのは、体に欠乏した栄養素を摂取したときです。人間を含めて動物は生理的に欠乏した栄養素や物質がわかります。ラットは自分の体内で合成することができない必須アミノ酸を含んだ餌を好んで食べ、わざと必須アミノ酸を含まない餌を用意しても食べなくなるという実験結果があります。空腹や渇き、栄養素の欠乏などさまざまな生理状態において、その欲求を満たすような食事をすれば、脳は美味しいと感じるのです。本来人は生きるために役立つ栄養素に対しては鋭敏な感覚を持っているのであって、糖分が豊富な甘い味は血糖を保ちエネルギーになり、美味しい脂肪はそれ自体が高カロリーでエネルギーの備蓄に役立つこと、旨味はアミノ酸やたんぱく質が豊富であること、また適度に塩辛さがあればナトリウムなど電解質のバランス維持に役立つことを本能的に知っています。

脳の発達という観点からみると、食にかかわる外部情報を持たない動物は、嗅覚や味覚など古い脳の機能を研ぎすますことによって体に必要な栄養素を含むものを食べるのに対して、新皮質が発達した人間では、栄養情報や安全情報、はたまた流行やブランドなど食に関わるさまざまな情報が味覚に対して大きな影響力を持つようになりました。さらに民族や地域、家庭など食生活を営む環境のなかで、独自の味覚や食文化を持つようになったのも、新皮質が発達した人間の特徴です。地中海地域では麦などの穀物、ブドウから造られたワインが日々のエネルギー源となり、地中海料理と切っても切れないオリーヴオイルは、料理に風味を添える調味料であると同時に、かつては糖質のエネルギー不足を補う貴重な脂肪源としての役割がありました。日本では昔から食用油を多く用いず、ほんのりとした甘味と旨味のある白米を主食として、そこに醤油・味噌などの発酵食と出汁に含まれるアミノ酸が醸し出す旨味を組み合わせるという手法で、独自の食文化を作り上げてきたのです。

※新サレルノ養生訓の無断転載及び引用を固く禁止します。