サレルノ養生訓とは
イタリア料理が好きな方や、地中海式ダイエットに関心をもたれる方の中には、「サレルノ養生訓」という本があることをお聞きになった方もいることでしょう。サレルノは南イタリア、カンパーニャ州にある都市で、ナポリの南東50キロに位置する有名な保養地です。学問の地としての歴史は古く、八世紀にはヨーロッパ最古の医学校が創設され、広く病気療養、保養の人を集めて「ヒポクラテスの町」とも称されました。イギリスやフランスの王族も治療のためにこの地を訪れたと言われます。
そのサレルノ医学校の創設後、十一世紀末には医学校の校長を中心に小さな衛生学の読本が作られました。それは全編ラテン語の詩の形をとって書かれ、食を中心に入浴法や睡眠など、生活習慣に関する注意事項を予防医学の見地から、一般大衆にもわかりやすく解説したものでした。
これが「サレルノ養生訓」です。現代イタリアでも、ある年齢以上の世代では、幼少時より親からそのラテン語詩を聞かされて育った人がいるとのことです。サレルノ養生訓の原典は、十四世紀スペインの医師•哲学者であるビッラノーバが注解した360行のラテン語文とされ、その後増補されて最終的に3520行まで膨らみ、またサレルノ医学校の名声が上がると共に、英語、イタリア語、フランス語など各国語に翻訳されて、広くヨーロッパ中に流布しました。

アテネ、アゴラ周辺のカフェ、遠景にアクロポリス
新訳サレルノ養生訓について
2001年に私が訳解した日本語版サレルノ養生訓(柴田書店刊)に用いたテキストは、1607年に刊行された英語版(通称ハリントン版、エリザベス一世に仕えた思想家ハリントン卿による英訳)です。この日本語版サレルノ養生訓は幸い多くの方に親しんでいただきましたが、再版のめどが立たず今日に至りました。そして数年前のこと、イタリア食文化に造詣が深い文流会長西村暢夫氏から、自身所持されるイタリア語版養生訓にハリントン英語版(2001年の日本語版)にない記載があることをお聞きし、併せてイタリア語版からの新訳を考えてはどうかという提案をいただきました。
英語版とイタリア語版の養生訓の記述に差異が生じたのは、養生訓成立に関わる複雑な事情があります。中世以降イタリア語を含めて主要な言語に訳された養生訓は、時代とともにラテン語原典の内容が膨らむことで異本や外典が生じ、次に各国語に翻訳される過程で、その国の歴史や時代背景からも影響を受けて訳者による異訳が生じたことで、各版の間で記述に違いが認められたと考えられます。ところで、ヨーロッパ食文化の二大潮流は、ギリシア•ローマ型とケルト•ゲルマン型に大別(M.モンタナーリ)され、このたびイタリア語翻訳者の森田朋子氏の協力を得て、ギリシア•ローマの流れを引くイタリア語版からの新訳が可能となり、出版前に当サイト上で少しずつ公開する運びとなりました。ハリントンの英語版との比較も興味深いところです。
今回訳者の森田氏は、新訳養生訓のテキストに現代イタリア語訳であるシンノ版(Mursia社刊)に採用されたラテン語(デ•レンツィ校訂によるラテン語完全版、3520行からなる)を用いています。1876年サレルノに生まれたアンドレア•シンノ博士は、博物学•農学を修め、科学教師や図書館員の職に就きながら、郷土史とサレルノ医学校の研究を行い、1941年サレルノ養生訓の注釈付き翻訳書を著しました。森田氏と私の間で協議し、今回の新訳にあたりシンノ氏の注解を参照しながらあくまでラテン語原典を尊重し、さらに時代とともに膨らみ豊かになった記載を盛り込んで、現代日本の読者により興味を持てる内容とすることを取り決めました。
以上、前置きが長くなりましたが、この11月から当サイト上に、新訳サレルノ養生訓を連載いたしますので、楽しみにして下さい。
ウェルネスササキクリニック 佐々木 巌
訳者略歴
森田朋子(もりた・ともこ)
京都市出身・在住。京都光華女子大学在学中、古典ラテン語を故・松平千秋教授に学ぶ。シエナ外国人大学にて第二段階ディプロマ(イタリア語・イタリア文学専攻)取得後、イタリア語翻訳・通訳業に従事。主訳書『イタリア旅行協会公式ガイド①~⑤巻』(NTT出版・共訳)。
解説者略歴
佐々木 巌(ささき・いわお)
ウェルネスササキクリニック院長、医学博士。専攻は内科学、呼吸器病学、予防医学。長年外来診療や講演活動を通じて地中海式ダイエットの啓蒙と普及にあたる。近著に地中海式ダイエットの魅力と歴史、医学的効果をわかりやすく解説した「美味しくて健康的で太らないダイエットなら地中海式」(大学教育出版)がある。
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- 8-1 パン
パンは塩気があり、発酵し、十分に焼かれ、
混じり気がなく、純正なものであるべきで、
そうでなければ意味がないと心得なさい。
パンは熱くても、古くなりすぎてもいけません。
二度焼きしてはならず、フライ鍋で揚げてもいけません。
発酵し、目(気泡)ができていて、よく焼成され
塩味が控え目で、健康な小麦を選り抜いて作ったものがよろしい。
腹一杯食べるのは、何につけ誤ったことですが、それがパンなら最悪です。
魚や、果物や、青物と一緒になら、
あなたはパンを多めに食べてもよろしいが、
パン同士を合わせるのなら量を減らし、
固ゆで卵と合わせるのならさらに減らしなさい。
- 8-2 ワインに浸したパンとオッファ(小麦粉で作った薄いパンケーキ、フォカッチャ)
ワインに浸したパンは2の2倍の働きをします。歯をきれいにし、
視力を鋭くし、足りないものの穴埋めをし、過剰なものを減らします。
ワインに浸したパンは空腹を鎮め、目と歯を輝かせます。
また胃を清めるので、息遣いの苦しさも消失します。
頭の回転をよくし、腹がふくれたと思えばまた減るのがオッファというものです。
- 8-3 ふすまとセモリナ粉
この外皮はそのままだと、小麦粉に混入したフケのようです。
粒が大きいのがセモリナ粉で、それより細かいのが小麦粉です。
- 8-4 ライ麦
ライ麦は痛風を楽にし、心臓を燃え立たせます。
適度な熱をもたらしてお腹を刺激します。
- 8-5 ポレンタ
柔らかいポレンタはお腹をゆるくし、通じをつけます。
解説
日々の食事で主食となるパンの話です。主食とは食事のなかでそれを主として食べることでカロリーや栄養素がほぼ満たされるものを言います。肉や魚、卵などから十分な栄養(たんぱく質)を摂れる先進国では主食の意義が薄れ、米や麦など穀類を摂らない人が増えていますが、途上国では一日のたんぱく質の9割を穀類に依存しています。パンの歴史は古く、古代エジプト人が最初にパン種を用いて膨らんだパンを作り、その手法がギリシア人、ローマ人に引き継がれました。パンはただ食糧というに止まらず、小麦やパンの神が信奉され、宗教上の儀式にも用いられるほど、人々にとって重要な食べ物でした。
パンの食べ方はさまざまで、養生訓にあるとおり、イタリアでは高齢者の中にはパンをワインに浸して食べる習慣が残っているそうです。その医学的効用は定かではありませんが、口腔内の清潔を保ち、美味しそうな食べ方といえそうです。オッファはおなじみのフォカッチャ(小麦粉で作った薄いパンケーキ)のことで、イタリアレストランでは前菜の前のおつまみ、あるいは料理の付け合わせとして出てきます。小麦が取れない寒い北イタリアでは、トウモロコシの粉で作るポレンタが、パンの代わりに主食として食されます。
さて、小麦の精製度があまねく向上したのは産業革命以降の話で、それまでは石臼で挽いてつぶした小麦の穀粒をふるいにかけて、つまり手作業で外皮や穀粒の外層部分にあたるふすま(ブラン)を剥離していました。今日私たちは精製過程で取り除かれるふすまや胚芽部分に高い栄養価があることを承知していますが、その昔ふすまは美味しいパンを焼くためには余計なフケに過ぎなかったのです。現在セモリナは硬質デュラム小麦を挽いたパスタの原料にもなる小麦粉のことであり、かつては最も素晴らしい小麦粉を意味していました。中世には小麦不足のためにライ麦がパン作りに代用されました。ライ麦パンはふすま(食物繊維)の割合が多いために、通じをつける効果があり、しっかり詰まった噛みごたえと爽やかな風味があるので人気がありますが、昔は好まれず、貧しい者の食事とみなされていました。
養生訓によると、理想的なパンの条件とは、原料としてよくふるいにかけられた小麦を用い、適度に発酵した後、よく焼成されたものと言うことができます。ふるいにかけられた小麦は外皮を含むふすまが剥離されるので、雑味がなくなり消化もよくなります。また脂肪を含む胚芽部分が取り除かれると麦の保存がしやすくなるメリットがあります。つまり美味しいパンを焼くにはそれだけの手間がかかり、金持ちはおかかえパン職人を雇い、精製度の高い高価で良質な小麦粉から作った白いパンを食べ、一方で貧乏人はふすまが混じった黒パンを食べざるを得ず、その結果、消化不良を起こす人が多かったというわけです。実際、アヴィセンナなど古代の名医の著作には、パンは肉より消化が悪いので摂りすぎは非難されるべきだ、と書かれているほどです。
今回の養生訓は今一度、人間にとって主食となる食べ物は何かを考える機会を与えてくれます。パン(穀類)が主食であるということは、毎日の食事でそれを食べることで、日々の活動に必要なカロリーを満たし、生きてゆくうえで欠かせない栄養素を摂ることができるということ。味や消化の問題はさておき、現代医学の視点から考えれば、黒パンしかありつけなかった貧乏人のほうが栄養学的にリッチなパンを食べていた、そしてそうした栄養学を知っている現代人は、その雑味のある黒パンをわざわざ高いお金を出して購入しているという不思議な話になります。しかしながら、パン(主食)だけでお腹を満たすような食べ方は、やはりよくはありません。主菜や副菜などおかずと組み合わせて食べるのがよいのです。そのひとつの理由として、穀類に10%ほど含まれるたんぱく質のアミノ酸組成は不完全なため、肉や魚、または豆類を摂らないと栄養失調に陥る可能性があるからです。
最後に私がギリシアで味わったピタの話を。ピッツァの語源にもなったピタは発酵のためのパン種を用いずに作った平たいパンで、おそらく世界でもっとも古いパンの原型と考えられます。現在でもトルコや中東あたりでは焼いた石の上で作られ、薄いパン生地にいろいろなものを包んで食べるのが特徴。かつて盛夏にアテネを訪れたとき、汗をかきながらパルテノンを見学したあと、アゴラ周辺の屋台で、ラム肉と野菜をくるんだピタを生まれて初めて食べたのです。そのパン生地の素朴な味と、肉と野菜の組み合わせの美味しかったこと。アゴラとは古代ギリシア人が日常集い、政治談議を交わしたり食料を買い込んだりした広場、市場のような所で、遠い昔アテネ市民もここでアクロポリスのパルテノンを仰ぎ見ながら、似たような食事をしたのではと想像するとわくわくしますが、今にして思えば、これはまさしく養生訓的パンの食べ方でしょう。
この冬10年ぶりにギリシアを再訪しました。私にとって長年の夢だった地中海式ダイエットの源流、世界でももっとも古いオリーヴオイルの生産地であり交易地でもあったクレタ島を訪ねる旅でした。ギリシアはどこで食事をしても野菜、果物、魚介類が新鮮で美味しかったのですが、本当のところを言うと、あの時のピタをもう一度食べたいと思い、旅行中あちらこちら探しまわったのです。しかし時は移ろい、大勢の若者や観光客でにぎわうピッツァやパスタの店は至る所にあるのに、ピタを供する店がほとんどないのでがっかりしました。これも時代の変化というべきか、それともこちらが年をとりすぎたというべきか。
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