新サレルノ養生訓 第23回 1部9章8 11-14、乳製品と豆

サレルノ養生訓とは

イタリア料理が好きな方や、地中海式ダイエットに関心をもたれる方の中には、「サレルノ養生訓」という本があることをお聞きになった方もいることでしょう。サレルノは南イタリア、カンパーニャ州にある都市で、ナポリの南東50キロに位置する有名な保養地です。学問の地としての歴史は古く、八世紀にはヨーロッパ最古の医学校が創設され、広く病気療養、保養の人を集めて「ヒポクラテスの町」とも称されました。イギリスやフランスの王族も治療のためにこの地を訪れたと言われます。

そのサレルノ医学校の創設後、十一世紀末には医学校の校長を中心に小さな衛生学の読本が作られました。それは全編ラテン語の詩の形をとって書かれ、食を中心に入浴法や睡眠など、生活習慣に関する注意事項を予防医学の見地から、一般大衆にもわかりやすく解説したものでした。

これが「サレルノ養生訓」です。現代イタリアでも、ある年齢以上の世代では、幼少時より親からそのラテン語詩を聞かされて育った人がいるとのことです。サレルノ養生訓の原典は、十四世紀スペインの医師•哲学者であるビッラノーバが注解した360行のラテン語文とされ、その後増補されて最終的に3520行まで膨らみ、またサレルノ医学校の名声が上がると共に、英語、イタリア語、フランス語など各国語に翻訳されて、広くヨーロッパ中に流布しました。

新訳サレルノ養生訓について

2001年に私が訳解した日本語版サレルノ養生訓(柴田書店刊)に用いたテキストは、1607年に刊行された英語版(通称ハリントン版、エリザベス一世に仕えた思想家ハリントン卿による英訳)です。この日本語版サレルノ養生訓は幸い多くの方に親しんでいただきましたが、再版のめどが立たず今日に至りました。そして数年前のこと、イタリア食文化に造詣が深い文流会長西村暢夫氏から、自身所持されるイタリア語版養生訓にハリントン英語版(2001年の日本語版)にない記載があることをお聞きし、併せてイタリア語版からの新訳を考えてはどうかという提案をいただきました。

英語版とイタリア語版の養生訓の記述に差異が生じたのは、養生訓成立に関わる複雑な事情があります。中世以降イタリア語を含めて主要な言語に訳された養生訓は、時代とともにラテン語原典の内容が膨らむことで異本や外典が生じ、次に各国語に翻訳される過程で、その国の歴史や時代背景からも影響を受けて訳者による異訳が生じたことで、各版の間で記述に違いが認められたと考えられます。ところで、ヨーロッパ食文化の二大潮流は、ギリシア•ローマ型とケルト•ゲルマン型に大別(M.モンタナーリ)され、このたびイタリア語翻訳者の森田朋子氏の協力を得て、ギリシア•ローマの流れを引くイタリア語版からの新訳が可能となり、出版前に当サイト上で少しずつ公開する運びとなりました。ハリントンの英語版との比較も興味深いところです。

今回訳者の森田氏は、新訳養生訓のテキストに現代イタリア語訳であるシンノ版(Mursia社刊)に採用されたラテン語(デ•レンツィ校訂によるラテン語完全版、3520行からなる)を用いています。1876年サレルノに生まれたアンドレア•シンノ博士は、博物学•農学を修め、科学教師や図書館員の職に就きながら、郷土史とサレルノ医学校の研究を行い、1941年サレルノ養生訓の注釈付き翻訳書を著しました。森田氏と私の間で協議し、今回の新訳にあたりシンノ氏の注解を参照しながらあくまでラテン語原典を尊重し、さらに時代とともに膨らみ豊かになった記載を盛り込んで、現代日本の読者により興味を持てる内容とすることを取り決めました。

以上、前置きが長くなりましたが、この11月から当サイト上に、新訳サレルノ養生訓を連載いたしますので、楽しみにして下さい。

ウェルネスササキクリニック 佐々木 巌

訳者略歴

森田朋子(もりた・ともこ)

京都市出身・在住。京都光華女子大学在学中、古典ラテン語を故・松平千秋教授に学ぶ。シエナ外国人大学にて第二段階ディプロマ(イタリア語・イタリア文学専攻)取得後、イタリア語翻訳・通訳業に従事。主訳書『イタリア旅行協会公式ガイド①~⑤巻』(NTT出版・共訳)。
解説者略歴

佐々木 巌(ささき・いわお)

ウェルネスササキクリニック院長、医学博士。専攻は内科学、呼吸器病学、予防医学。長年外来診療や講演活動を通じて地中海式ダイエットの啓蒙と普及にあたる。近著に地中海式ダイエットの魅力と歴史、医学的効果をわかりやすく解説した「美味しくて健康的で太らないダイエットなら地中海式」(大学教育出版)がある。

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  • 11 乳(ミルク)

 

結核患者によい乳はラクダの乳、次がヤギの乳で、

ラクダの乳はラバの乳に及ばず、ラバはロバに及びません。

このうち最も栄養価が高いのはロバの乳です。

もっと栄養があるのは牛と羊の乳です。

もし熱があったり頭痛がしたりするのなら、あまり体のためになりません。

乳は胃に湿気を与え、栄養となり、また肝臓・胃の過剰な

熱を和らげ、尿をもよおさせ、落ちた脂肪を取り戻させ、

腹を柔らかくし、体液を溶かすとされています。

牛の乳は四肢を大いに元気づけ、熱い体液が与える有害な

苦痛である熱を冷まし、肉づきをよくし、

子宮の傷を癒します。

乳は人体にうるおいを与えますが、一方で体を冷やすので、甘い食物は何でもそうですが、腸の調子を乱します。

 

 

  • 12 バター

 

熱がない場合なら、バターは緩和し、うるおいを与え、溶解します。

 

 

  • 13 乳漿

 

乳漿は取り去り、洗い清め、浸透し、そして浄化します。

 

 

  • 14 チーズ

 

チーズは冷たく、便秘をもたらし、脂っぽく、固いものです。

健康によいチーズとは、吝嗇な手が差し出すものを言うのです。

パンを添えたチーズは、健康な人たちにとっては実に体によい食べ物です。

もし健康体でない人たちであれば、パンにチーズを添えるべきではありません。

チーズはやくざ者です。なぜなら、自分以外のものは何でも消化するからです。

チーズは食べ物である以前にまず栄養分で、ついで薬であるべきです。

チーズはしばしば、玉ねぎと共に、午餐に登場します。

無知な医師たちは私が体に有害だと言いますが、そのくせなぜ毒なのかは知りません。

熟達の医師たちは、私が有用だと考えています。なぜなら嬉しいことに、チーズは弱った胃に活力を与えるからです。

チーズは食物であるより以前に、有用なものです。もしお腹がゆるいのであれば。

食後にチーズが食されるのなら、それで飲み食いは終わるべきです。

そのことは、自然哲学を無視しない人たちが証言するところです。

摂取された食物を胃の底で柔らかくする一方で、同時に、消化の力を助けます。

胃がげんなりしていたり、食欲が落ちていたりしたら、これは胃に喜ばしいものとなり、食物を受け入れられやすくします。

厚い皮(リンド)におおわれていて、光に透かしても穴がないなら、

その重さと同じだけおいしいと言われます。

アルグス・ラルグスはだめ、マトゥサレムはだめですが、マグダレナはよく、

ペトルスはだめですが、ラザルスはよろしい。これはよいチーズです。

塩気があり、年を経たチーズは、胃をカッカとさせます。

消化が遅いと、お腹を秘結させると言われています。また冷やすとも。

塩気のある羊のチーズはさらに滋養になる上、

お腹をもたれさせることもわずかだとされています。

塩気のないチーズは消化もよく吸収もよいです。

 

 

  • 15  豆

 

私たちはエンドウ豆を、賞賛すべきでありかつ拒絶すべきものであると判定しました。

これは外皮つきだと膨張させる(お腹にガスがたまる)上に有毒ですが、

さやさえむいてしまえば、エンドウ豆というのはなかなかよいものです。

ソラマメは人体に滋養を与え、外皮つきだと腹を秘結させ、

粘液を干上がらせ、胃と視力に打撃を与えます。

ソラマメを食べるのは避けるべきです。これは痛風の原因となり、体を浄化し、便秘を引き起こします。頭が重くなることはありませんが、お腹にガスがたまります。

豆類全般、それにヒヨコマメのスープは体に良いですが、豆そのものは悪いです。

豆類のスープがお腹をゆるめるのと同じくらい、豆そのものは秘結させます。

もし両方が与えられた場合、まず弛緩する方が見られます。

赤い色をしたひよこ豆のスープは有益です。

その他の豆のものはくれぐれも避けることです。

 

 

 

 

解説

 

今日のような抗生物質が存在しなかった時代、乳は結核の患者に対する最良の治療法でした。それは乳が肝臓や胃の過剰な熱を和らげ、栄養となり、落ちた脂肪を取り戻させ、体液を溶かすと考えられていたからです。結核という病気は結核菌の感染によって起きる慢性の炎症性疾患で、多くは肺に感染します。すると発熱が続き、粘調な痰がこみ上げてきて咳き込むので、体力を著しく消耗します。冷湿で消化しやすい乳は、熱を冷まし、体液のかたまりを洗浄し、かつ体を養うと医師たちは考えました。ロバの乳が推奨されているのは、かつて神聖なものとされていたためで、実際、飲用、加工用の乳の大部分は、牽引動物として酷使されたウシより飼育しやすいヤギやヒツジのものでした。ただし保存の難しさから、古代から中世にかけて乳の消費量は決して多くはなかったのです。

 

バターは緩和剤や潤滑剤として、乳漿は清涼剤、緩下剤として、古来食材としてより薬として用いられました。古代ギリシアでは、バターは薬や軟膏として使われ、14世紀まで地中海沿岸の国々で料理に使われることはありませんでした。暑い気候にあって鮮度を保つことの困難さと、この地方では伝統的に調理油としてオリーヴオイルが使われていたことがその理由です。しかし料理の材料や風味づけに次第にバターを使うことが流行し、ヨーロッパでは16-7世紀には料理用の油脂としてバターがオリーヴオイルに取って代わったのですが、近年、心臓病を予防するなど効能が明らかになったオリーヴオイルを調理油として用いることが世界的にブームになっています。

 

西洋料理の伝統では、チーズは食後に出されます。それはチーズが肉などを食べたあとの消化に役立つと考えられていたからで、今回の養生訓でも消化作用を高めるチーズの効用が褒めたたえられていますが、その一方、チーズはやくざ者で、自分以外のものは何でも消化する、つまり食べ過ぎればチーズは胃にもたれ、便秘をもたらし、健康上有害であると戒めています。健康的なチーズとは、アルゴス(ギリシア神話に登場する百眼の巨人)のように眼(穴)を持たず、メトセラ(旧約聖書の箱舟伝説のノアの祖父、969歳で死亡)のように年を経ておらず、使徒ペテロ(岩)のように固くないもので、要するに長期熟成したチーズはだめだと言っています。塩気の多い熟成したチーズは美味ではあっても、食べ過ぎれば数ある長所がなくなってしまうというわけで、けちで物惜しみする吝嗇(りんしょく)な人たちの手が差し出すくらいの少量のチーズを摂ることが、健康上最良の食べ方だと教えています。養生訓のこうした教えは、乳製品を毎日摂るのであれば低脂肪のフレッシュなチーズやヨーグルトなどを推奨する今日の地中海式ダイエットの考え方にもつながっています。

 

最後に豆が登場します。昔から畑の肉と言われてきた豆は、ビタミンB1、ビタミンB2、ビタミンC,葉酸などのビタミン、鉄、亜鉛、銅などのミネラルの供給源として肉や内臓類にも劣らない栄養価があり、肉や魚など動物性たんぱく質と比較すると不完全な植物性たんぱく質ではあるものの、そこは穀物と合わせて摂ることで互いに不足する必須アミノ酸を補足することが可能になります。ところで、古代ギリシアやローマでは豆は軽視され、貧しい人々の食事とみなされていました。三平方の定理で有名なギリシアの数学者(哲学者)ピタゴラスにあっては、ソラマメは不浄であり、陽にあたってふやけると人の排泄物の臭いを発するので毛嫌いしていたと伝えられています。豆がそうした悪評を被った理由は、養生訓にあるとおり、豆を、とくに皮ごと食べるとお腹にガスがたまりやすいためで、これは豆に含まれる糖分や繊維が腸内細菌の作用で発酵して出来る腸内ガスの作用によるのですが、さやをむいて食べる、さらに乾燥豆は一晩水に漬け、加熱調理するなどの工夫で予防することができます。この豆類をもって主菜となる食べ物の話は終了し、次回から地中海の食事を彩るさまざまな野菜、果物、野草(ハーブ)に話題が移ります。

※新サレルノ養生訓の無断転載及び引用を固く禁止します。